ウイリアム大おじさまが、アンソニー、アーチー、ステアに勝手に作って良いと言った、バラの門、石の門、水の門とは何だったのだろうか。
ウイリアム大おじさまの意図はともかくとして、この3つの門は、3人の少年を象徴的に表している。
アンソニーのバラの門
アンソニーの運命を知った後では、バラの門というのは意味深である。また、3人の中で唯一生物を用いた門である。生物ということは死を避けることはできない。これはアンソニーの死を暗示する。これは容易に理解できる。
アーチーの石の門とステアの水の門
一方で、ステアの水の門とアーチーの石の門は分かりづらい。初めてアーチーがキャンディと会った際、アーチーは水上で昼寝をしている。そこにキャンディが不意に石の門を押したために、ステアの作った仕掛けにより巨石が落下しアーチーは流される。この一連の流れを見ると、アーチーは水上におり、ステアは石の門の仕掛けを設置したということになる。ならば、アーチーが水の門で、ステアが石の門を作ったとするのが自然な流れと思える。しかし実際は逆なのである。
門が象徴する意味を考える
単純にキャンディの出会ったシチュエーションというだけなら、上に書いた通りアーチーとステアの門は逆の方がしっくりくる。しかし、アンソニーのバラの門のように、その象徴する意味を考えるとまた別の見え方がある。
ステアの水の門
ステアの水の門の象徴とするものは何であろうか。バラは水や石と違い生物なので、死と切り離して考えることはできない。しかし水は無生物である。無生物に死はない。それでもステアは死ぬ。しかも志願兵として戦場で、恋人パティの国を守るために。
これはどういうことか。確かに水は生物ではない。しかし生物は水無しでは生きられない。水は生命の源なのである。生命の源である水の門を作ったステアは、人々が自ら殺しあうという戦争に意味を見出せなかったはずだ。それで義憤に駆られ自ら志願兵となったのだろう。この考えは分からなくもない。しかし、志願兵となるということは、自ら殺しあいに参加することと同じであることに若いステアは気づかない。戦争を早く終わらせることは志願兵となることではないということに気づかなかった点がステアの若さである。しかしこれも仕方がない。ステアは水属性なのである。水に波が立った時、それを打ち消すには反対の波長の波をぶつければ良い。戦争で殺し合いがなされている際には、自ら殺しあいに参加し、殺し合いの相手がいなくなれば戦争は終わるという発想になるのは水属性の宿命である。
また、水はどのような形にもなり、どのような色にも染まることができる。これは、ステアがアーチーよりも容易にキャンディへの思いを抑え込み、パティと恋仲になることができたことと一致する。状況に応じて自分の気持ちを切り替えていくことがステアにはできるのだ。それでもキャンディが旅立つ日に"キャンディが幸せになり器"を渡す等、キャンディの思いを完全断ち切るまではいかなかった。しかし、テリィに会いに行くキャンディに、しあわせになり器を渡すという行為から分かる通り、キャンディを幸せにできるのは自分ではないという自覚を持っている。
アーチーの石の門
アーチーは、ステアと異なり、キャンディへの思いを隠すことなくステアやテリィに語っている。最終的にアニーの愛を受け入れるが、ステアのように状況に応じてキャンディへの思いを変えて行くようなことはできない。その意味で石属性なのである。また、アーチーはステアと異なり、マンガの範囲では、キャンディの心に何かを残すことはできなかった。どちらかというとステアと一緒に道化役を引き受けていたら、ステアは最後に"キャンディがしあわせになり器"と志願兵として戦死というキャンディと読者の記憶に残るエピソードが用意されていたが、自分にはそのようなものは用意されていなくて、物語中に居場所がなくなり、アニーとくっつくことで無害化されたという理解でほぼ間違っていないであろう。アーチーは、その頑固さを終始一貫貫いたが、最後だけ物語を上手く終えるために折れた…そう考える。
だからアーチーは石の門
以上から、アーチーは石の門で、ステアは水の門なのである。ではなぜアーチーとの初対面の際、アーチーは水上のボートにいて、石の門の仕掛けを作ったのがステアなのか。これは、アーチーとステアのコーンウェル兄弟の仲の良さを示しているのではないだろうか。アーチーとステア2人のキャンディに対する思いは、変幻自在の水と終始一貫変わらない石という対となっており、この組み合わせが、主役にはなれない2人だが、それだからこそ物語の安定を生み出す役をになっている。アンソニーといいテリィといい主役級の2人は物語をかき乱す役だから。