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【ちはやふる】第44巻 なぜ若宮詩暢は強いのか


末次由紀「ちはやふる」の第44巻は、物語の最大のクライマックスに差し掛かっており、第43巻で1試合目を、第44巻で2試合目を終えるという形で、大体1試合1巻で消化してきている。

ちはやふる(44) (BE・LOVEコミックス)

クイーン戦は、5試合中3試合先取で勝敗を決するので、単純に考えれば、このクライマックスは、あと3巻は必要だろう。話の盛り上がりに合わせ、それ以上になるとは思うが。
序盤戦のターニングポイントとなる第2試合を描くこの第44巻について見ていく。

【以下、ネタバレあります】

若宮詩暢の強さの理由

若宮詩暢の強さは、普通の選手がしている暗記や確認の上に更に関連のある札の声を聞いているという。「競技かるたをやる人は札の意味にも歌人にもそんなに注意は払っていない」が、詩暢だけは「札を心のあるものと思って見てる」という。「ちはやふる」の物語世界では、これが詩暢の強さの理由とされている。幼少期から、百人一首を、競技かるたの素材としてではなく、その世界観の中で捉えていた。また、障子に貼られた色紙由来の百人一首の、貼られた配置にまで幼少期の詩暢は心揺さぶられている。このため、それぞれの札の中に、各歌人のキャラクターを見ているのである。詩暢には、札の並びによって各札のキャラクターが奏でる会話が聞こえるため、それぞれの声を基に札の暗記が強化される…というのが、「ちはやふる」世界における、クイーン詩暢の強さの理由である。

詩暢の強さの理由に気づく千早

千早は、この強さの理由に気づいている。そして手を打つ。各札のキャラクターにとって、好ましくない配置に自陣の札を配置するのである。例えば仲の悪いとされているもの同士を並べるとか、生理的に合わないキャラを近くに置き、挙句には、日本三大怨霊の2人を並べる。この千早の行為が意図的であることに気づかないわけがない。故に詩暢の内心は乱される。この心理戦の初期に気づいたのは、古典好きのかなちゃんである。千早の札の配置換え等の行動を見たかなちゃんの表情が一々かわいい。

札に嫌われる

千早がしばらくは有利に試合を進めるが、すぐに行き詰まる。なんと自ら仕掛けた札のキャラクターを悪用した配置戦略により、千早自身が札から疎外感を覚えるようになってしまうのである。うーん、なんという精神世界。札の声を聞く詩暢に対するテクニカルな戦術として、札の声なるものを利用した千早自身が、札の声に囚われるとは。

おもしろくてきれいな子

しかし、千早は、自身も札のキャラの声に囚われたが故に、打開策を得る。これまで詩暢の強さの源泉であった、札を自らの味方としている詩暢と札の世界に、千早は土足で上がる、というか、呼ばれもしないのに入り込む。これで札のキャラクターが拒絶するかと思いきや、「ずっと思っとったし、おもしろくてきれいな子やって」と言う。詩暢の少しだけハッとした表情で、キャラクターの声が続く「それに初めてやないのここに来てくれた人」。つまり、同じ土俵で戦うことを、札のキャラクター達が歓迎しているのである。ここで、「きれいな人」という表現が、若干引っかかる。確かに無駄美人と言われるという設定をもつ千早ではあるが、かるたの勝負の話において、「きれいな人」は、必要のない評価に見える。ただし、ここでのきれいが、美人という意味でないと解釈すれば理解は可能である。平安歌人の美人基準とはそもそも現代の美人の評価は異なるはずであり、それも踏まえると、ここでのきれいな人というのは、美人という意味ではなく、かるたに対する思いもしくは姿勢についてなのかもしれない。「競技かるたをやる人は札の意味にも歌人にもそんなに注意は払っていない」ため、「札を心のあるものと思って見てる」のが詩暢だけであったところに、千早も入って来たのである。競技かるたを競技としてしか考えない選手には、札の暗記と確認は、あくまで勝つためのものでしかない。しかし、詩暢と似た札の声を聞くというアプローチで競技かるたを戦う千早が現れた。各札のキャラクターまで理解して競技ができることを「きれいな人」と呼んでいると思われる。

札の声は詩暢の声

結局のところ、各札の声を聞くといっても、これは詩暢の頭の中でのこと。つまり、「ずっと思っとったし、おもしろくてきれいな子やって」という声は、札に言わせているが、詩暢の心の声なのである。やっと自分と同じレベルでかるたを戦える人が来てくれたと。

各札の声の聞き方は詩暢と千早は違う

千早も札の声を聞くことができると描かれているが、その習得は、詩暢とは異なる。詩暢は、幼少期から百人一首に慣れ親しんでいたため、自然と身についたものである。天才とも言えるものである。古典を愛するかなちゃんもこれに近い感覚を持っている。しかし、千早は違う。あくまで競技かるたの技術の1つとして身につけている。それはこの第44巻の肉まんくんとの部活帰りのエピソードに描かれている。このエピソードは、肉まんくんは千早が歩きながら見ていた本が受験勉強のためのものと思っていたが、実はかるた関連のものであったという導入から始まる。そこで千早は、意味と背景を大事にするかなちゃんの札の確認の仕方を、ありえないと言っていたが、これは「じつはものすごく強靭な暗記の確認だったんじゃないかと思うの」と発見する。

詩暢・かなちゃんと、千早の違い。それは、百人一首もしくは古典を愛するがために自然に身についたものと、技術として習得したものの違いである。千早がなぜ札の声を聞くことを技術として習得できたのかということには理由が必要である。これはちゃんと用意されている。千早は進学校に通う受験生であり、受験勉強をしながらのクイーン戦挑戦なのである。進学校に合格するだけの頭脳が千早にはあるということ。この頭脳を用いて、千早は、札の声を聞くことを技術として習得したのである。詩暢とかなちゃんは、百人一首、古典を愛するがゆえに肌に対する理解を進めたが、千早は、受験テクニックの応用という形で理解を深めたと言える。、詩暢とかなちゃんの域に達しようとしているということである。

紫式部と清少納言

古典に名だたる2人であるが、百人一首にも共に挙がっている。この2人の関係が、詩暢と千早の関係にダブっているように見える。年齢差こそ、紫式部は清少納言より年上、詩暢と千早は同級生と異なるが、かるたの世界では明らかに詩暢が先輩。若い才能に怯えるという関係で相似形が見られそう。ただし、紫式部は本当に清少納言を嫌っていたようだが、詩暢は千早を受け入れるような描写もあるので、これからの展開次第では、これは2組の関係は、相似形とはならないかもしれない。

名人戦

新も名人戦において札の「暗記」法についてもがいている。名人戦の決着が着くまでに、千早と何か意思の疎通をする機会があって、それぞれの閉塞感の打開策が得られるという展開になるのかなと推測。

太一

なんか動くみたいね。

攻めがるた

千早のかるたの師、原田先生が、千早がクイーン戦の準備において自分を頼ってくれなかったことに対し、もう攻めがるたの時代ではないと自分のかるたの取り方を絡ませて嘆くシーンがある。その後、同じ第44巻にて、今の千早のかるたも、見方によっては攻めがるただと確認する。これの意味することは、千早が既に原田先生の手を離れ、守破離の、離のレベルに至っているということである。つまり、原田先生が、千早が自らを越えていったと認めるエピソードである。師匠越え…クライマックスへのフラグ回収の1つと言える。