このドラマ、タイトルからして消すとか物騒な言葉を使っている。また、明らかにゾンビが登場しており、現実世界ではあり得ない、つまり普通のドラマでは論理破綻となることを次々と繰り出している。ある意味ドラマの掟破りを繰り返す、『せんけす』について、考えてみる。
ゾンビ化してまでやりたいこと
結局、義澤はゾンビ化してまで何がしたかったのだろう。いや、何がしたいも何も、命くんに無理やりゾンビ化させられてしまったのか。まあ、いずれにせよ、蘇生した後の義澤は、静が、どんなことがあっても生徒のことを考えろという言葉だけで動いていたとも言える。とにかく4Cのことを考えて行動している。
制作側は何が描きたかったのか?
これ、謎。単に視聴率を稼いでやろうということで、衝撃的なシーンをつないでいただけとも考えられるが…ならば少しは話の体裁を整えて、合理的解釈可能性を考えて欲しかったところ。あえてやっていると考えれば…。
命より大切なものの存在
まあ、かなり無理があるが、せんけすでは、命より大切なものを描こうとしているという解釈ができなくもない。それは、静との約束。
どんな生徒も指導する
1つは、義澤は、静が言ったどんな生徒も指導するという方針に忠実であろうとし、自らを消そうとしてくる4C達にも積極的に教え導こうとしていた。
行ってきますのキス
これは、義澤がいつでもできると言ったがためにできなくなったもの。これについても、静の生命維持装置を外し、死亡させ、その後、蘇生させた後に、実現している。
いずれも、静の言ったことを守ろうという姿勢が見られる。これが命より大切なものだったという解釈であると、言えなくもない。
命より大切なことを強調するために命を雑に扱うこと
これが許されるかということ。『先生を消す方程式』では最初から、これをやっている。確かに蘇生できるなら、それも良い。しかし現実の人間は一度死んだら復活することはない。それを否定した上での、命より大切なものの提示は、ドラマとして反則ではなかろうか。実質死なないなら、命より大切なものという考えも分かるが、現実は死んだらお終いだから、それは無理…という考えを否定できない。
そこに合理的理由は無く、させたいからしたでしかない
このストーリーには、ここで生き返るのはこういう理由で、とか、階段から突き飛ばされ、頭から血を流しても翌日登校できるのはこういうことで、という合理的説明は一切ない。あるのは、階段から突き落とされて頭から血を流しても登校して授業をさせたいからという、制作側の都合しかない。普通は、理由も用意するから説得力があるのだが、ここにはない。生死についても、頼田が、脈はあったが埋めたとか、生死について曖昧にしておきながら、実際はゾンビだったという扱いをしている。とにかく、義澤と頼田の超人性については、制作側がそうしたいからそうできる以外に説明できるものはない。これはあまりに不誠実なドラマ作りである。