Golden Time

時はお金で買えません

【俺の家の話】第4話 落とし前をつけると称して寿限無を窮地に追いやる寿三郎


この第4話の早い段階で、寿三郎が全て分かっていると、さくらが言ってしまう。こういうの引っ張らないのは、良い…のだが、寿三郎の意識は日によってムラっ気があるようにも見える。それよりも寿限無の方が心配になる。おとなしいヤツがキレるのが一番怖いというステレオタイプなキャラのようだから。全てわかっているのではなく、調子により、分かっている時と分かっていない時があるのではないだろうか。そうならば、本当の不幸はこれからだ…悲しいことに。

寿限無の落とし前

夢の127番「寿限無の落とし前」。単に人間のクズだな寿三郎。ちょっと困るほどのクズっぷり。親のクズっぷりを聞かされて寿限無は何を思ったのだろう。身じろぎもせず聞いていたというが…それが逆にショックの深さを表すというものではないか。ラストでの寿限無のキレっぷりは鬼気迫るものであったと表現されるシーンなのだろう。実際はそれほど鬼気迫っているようには見えなかったが。これまで抑制的に生きてきたので、初めて来た反抗期なのかもしれない。結局、寿三郎が寿限無に真実を話したのは、さくらが今言わないと認知症の寿三郎は、言うタイミングを失うと言ったからである。しかし、真実を全て話すのが良いことか否かは分からない。確かに認知症が進めば本人の口から言えなくなるかもしれないが、タイミングは今ではないかもしれない。結局、桜のアドバイスは、寿三郎のためを思ってのものであって、寿限無のためのものではない。自分の口で言いたいという寿三郎が満足することだけ考えている。寿一は、さくらに意見を求めているのでこれに反論しない。それで、寿限無は精神的に追い詰められることになる。

死ぬ間際にスッキリしたい

寿三郎の告白は、流れとして、跡目を寿限無に継がせる、遺産は全て寿限無に、とセットでも辻褄が合わないほど寿限無にとって衝撃的な話。最低限、そうでなければ言うべきでないくらいなのに、寿三郎は、言って自分がスッキリするだけで償いはなく終わりという残酷さ。この残酷さは、既に以前からあり、寿限無を連れてガールズバーに通う描写は、寿三郎が寿限無に負い目など感じていないことを表すに十分である。自分の女性に対する欲望が寿限無の誕生及びその後の不幸を生んだにも関わらず、その寿限無を連れてガールズバーに行くことをためらわないのだから。

寿限無に出生の秘密を明かし、自分がスッキリして終わりとするだけで、ケアしないのだから、寿限無が狂うのは当然。寿一を始めとした三兄弟も同じ。塾講師や弁護士という、色々人の気持ちを察しても良さそうな職についていても、自分のショックを癒すのに精一杯で、寿限無をケアできない。というより、やはり三兄弟も寿限無に対して、ずっと残酷だったということだろう。

三兄姉弟と寿限無

跡取りとか言っている長男がバツイチのプロレスラー、長女がラッパーと結婚して塾講師、次男が弁護士と、各人比較的外の世界で自由に生きてきてきた。こいつらが自由を得られたのは、血のつながらないが故に寿限無が家に縛られてきたからこそ。兄弟にその自覚がないっぽくて、寿三郎だけ悪者と思っていそうなところが、本当は怖い。この前時代性。しかも本当は血が繋がっていたとか。40歳で実は俺の子と言われて切れない方がおかしい。父親と兄弟に人生を台無しにされたのだから。これ、ハッピーエンドにできるのだろうか。なぜか、はみ出しものに見えるO.S.Dと大州が勝ち組に見えてくる不思議。これは、観山家の中だけでなく外とのつながりも重視して生きているからだろう。

落とし前って何?

結局、「落とし前をつける」という言葉選びからして、寿三郎は、寿限無という人格に対して無礼であると言うことができる。

スーパー世阿弥マシンのタンス

さくらにはスーパー世阿弥マシンであるとバレるし、予告を見ても次回は荒れること確定。それにしても、衣装を自分の家のタンスに入れていたのはダメだわ。そもそも衣装着たまま街を歩いて周りから何も言われないのは…あ、しんたまプロレスがそれだけマイナーというだけのことか?

電動車椅子から落ちたさくら

めまいとか言っているが、これ、寿三郎がスピード出して後ろ向きに落下し、頭打っているのではないか?そうならば動かしてはいけないし、ましてや頭を下にして担いではいけない。その後も、病院に行ったようでもないし。これがフラグになって次々回くらいに、突然倒れるとかありそうで怖い。

血のつながりという残酷さ

寿一と秀生という親子関係。寿三郎と寿限無という親子関係。血のつながりがあるが故の幸せと不幸が、共に第4話の中に入っていることで、寿三郎のやったことの残酷さが強調されている。

能、プロレス、ダンス

どれも動きで魅せるエンターテイメント。結局、世代や考え方から、惹かれるものが違うから、極めようとするものも異なるが、根っこは同じ、パフォーマンスしたいという欲求。寿三郎、寿一、大州、秀生の血は繋がっているということだ。大州は、O.S.D.の血も入っており、能という伝統芸能の血と、ラップというポップカルチャーの血を併せた、表現者としては最高の遺伝子を持っているのかもしれない。

大州と秀生

大州ってダイス、つまりサイコロってこと?ギャンブル人生?で、秀生って、優秀優秀と言われて自己抑圧的に生きるということ?しかし、実際のところ秀生は生きづらさを抱えているし、大州はギャンブルというより、比較的自由に選択する人生を歩んでいる印象。これ、名前と現実が、逆なのかもしれない。

YES!子どもだって能(NO)…NOと言って逃げた大州と言えない秀生も、同じことを表しているのだろう。秀生は逃げたいのに逃げ出さないのではなく、逃げる先がなく逃げられない。つまり、寿限無。

大州の両親、秀生の両親

大州が友達とのダンスバトルを選ぶのも、秀生が能の練習を選ぶのも、親の性格が反映、もしくは遺伝していると言える。大州の父はラッパーでラーメン店複数経営と、言葉で人を動かすことができる。母は塾講師であり、これは、一定程度以上の頭脳を持つことと、生徒に伝えたいことを伝える能力があることを意味する。一方、秀生の両親は、父親は身体で表現するプロレスラーで、母親は自分中心の性格に見える。特に優れた資質を持つようには描かれていない。なんというか、秀生が人の中で生きづらいのも、大州が友人とチームとなってダンスをし、優勝できるのも、両親の設定から容易に想像できるというか、さもありなんと受け入れられるのである。観山家の中では問題児扱いの大州、良い子扱いの秀生であるが、家の外の現実の生きづらさはこの逆である。これは、陳腐ではあるが強固な設定と感じる。

寿三郎は自分がやりたいことはやる。他の人にはさせないけれど

この性格、周りは困る。