家族旅行…なのだろうかこれ。舞が言う通り、これは家族旅行ではない。寿一が言う通り、寿三郎の好きにさせてやる旅である。末っ子で家族を持たない踊介はそれに気づかないまま旅をスタートさせている。踊介どんなに子供なんだよ!それを考えれば、自制しながら、ちゃんとついてきている孫たちは大人である。親の都合に付き合わされても文句が言えない子供って本当に大変だと思う。
寿限無は段々と家族とのつながりを戻す
他に行くところがないという致命的な状況では、寿限無は、再度観山家の家族の中に戻るという選択肢しかなかったということだ。未だに所々でキレるが、概ね無表情で旅行に従っている。可哀想すぎる人生。ただ、観山家の中での自分のポジションを見つけようとしているのは分かる。しかし、その際の軸となる価値観が、観山家の継承順位というのが悲しい。未だに自分を縛ってきた価値観を引きずっているから。踊介のタメ口に対しては、他の人がいる時はスルーするが、2人になった時は、それにキレており、いきなりキレて周りを混乱させるのではなく、キレ方を学習した印象。また、一度大きくキレたことにより、周囲の寿限無を見る目が変わったことも大きい。タメ口については、ラストのステージのシーンで、寿三郎からタメ口を聞くことを許されたので、ほんの少しだが、寿限無の肩の重しが軽くなったと言えそう。
今度は寿一がキレる番
寿限無が落ち着きつつある中、寿三郎の望むような家族旅行にしようと頑張る寿一がキレてしまう。いい大人が集まった旅行というものは、参加者のいずれかもしくは全員のストレスを高めることはままあるが、寿一は、過度に寿三郎の、家族をあまりにも顧みないわがままに従いすぎてキレる。この話、よく出来ていて、寿一の息子秀生が、旅行に耐えられなくなって脱走するシーンが入っている。寿一が旅行中何度も楽しめてるか?と聞いていることが遠因であると大州が看破している。これは秀生のためではなく、自分のための確認であり、つまり過干渉ということである。この秀生のエピソードにより、寿一の自己満足のための過干渉は、寿三郎に対しても同じということを暗示している。秀生と寿三郎二人だけの会話を見れば、秀生の方が寿三郎のことをわかっていると言うことだろう。ただし、寿一のいない大浴場シーンで、他の家族が寿一の大変さを語っており、寿一が秀生より劣っていると言うより、日々の介護で寿一が寿三郎のことを考える余裕がなくなっているということに思える。
なぜ踊介は、寿限無に対する態度を変えられないのか?
末っ子ということも多少はあるかもしれないが、裁判ではどんなに依頼した側がダメ人間でもその人間のために弁護しなければならない弁護士という仕事により身についた性格と、兄弟で唯一子供を持たないということが大きいだろう。寿限無の環境が、自分の子だったらと思うことで理解できる感情が、踊介にはないということ。まあ、それ以前に、さくらへの勘違い行為から見ても、踊介は、人の気持ちがわからない人間なのだろう。
旅行先にやってきて帰るさくら
ひとり留守番というのが、観山家から解放されたという感覚ではなく、一人でつまらないということになるのは、どれだけ寿一が好きなのかということ。しかも、山賊抱っこで寿一成分を補充したら満足顔で帰ることができるというのが、本当に好きなのだなぁということ。ただし、これは恋に恋する状態にも見える。33歳の誕生日というタイミングに最高のプレゼントになった…はず。
過去、浮名を流した3人
子供にも夫にも仕事にも恵まれ幸せなちはる、家族関係は不明だが温泉旅館女将で仕事に充実しているまゆみ、3人の子、認知症の母、服役中の夫と苦労を抱えながやカラオケ喫茶を経営する豆千代。家族のことで大雑把に言えば、ちはるが幸せ、まゆみはニュートラル、豆千代は不幸となる。しかし、結果的に寿三郎の生前の形見分けは、幸せなちはるに百万円の価値はある面、まゆみは無し、不幸の豆千代は扇子。これは寿三郎の意思ではなく、寿一の企みによるものではあるが、幸せ、不幸せに追い討ちをかける感じの形見分けになっている。
『俺の家の話』は、寿三郎から家族を解放する話なのか?
介護が必要という点で、家族で会う機会が増えたのだろうが、それがなければ、根っからのクズといえる寿三郎に、家族は近づかなかったのかもしれない。それとも介護関係ないならば、寿限無は何の問題もなく宗家を継げたはず。しかし、介護が必要なので、家族は縛られる。これ、堂々巡りになりかねないが、どのように最終回を求めるのだろう。