Golden Time

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【大豆田とわ子と三人の元夫】最終回 世界は人の数だけ回っている


世界は自分にとっては自分中心に回っているが、他の誰かにとっては他の誰かを中心に回っている。人生は続き、いつか終わる。その間、多くの人と出会い別れるし、他の多くの人には会わない。別れの類型として死があるから、このドラマの中でかごめの死を描くのも必要だったのだろう。

西園寺くんとマーさん

西園寺くんはとわ子から見て1世代下、マーさんは逆に1世代上。ともに娘、母という血縁者の恋人。こういう対比を同一回で持ってくるのよく考えられている。

西園寺くんは、極端な男。そういう意味では、三人の元夫系列に入れそうだが、しかし、三人にある優しさがない。弱みにつけ込んでとわ子に近づこうとした門谷社長以来の悪い人間認定できる登場人物。ただ、西園寺くんを嫌う感情を持つならば、その西園寺くんを逆に利用しようとしていた唄も、その点においては嫌わなければ辻褄が合わないと思う。医学部生の恋人、医者の妻の座を狙って自分は学問をしないと言う選択は、西園寺くんの中身が好きとは別の原理に基づく行動。

一方のとわ子の母の好きだった人、マーさん。どういう人だったかと思わせておいて、これはちょっと想像できない豆夫らしい展開。ちょっと想像できないことが先入観というもので、それに気づかせてくれる『まめ夫』凄い。伏線はあったのに。

夜食べる朝ごはんという一体感

何でみんなで食べるのか。同じ窯のメシ的な感じで3人の元夫は食べている。目玉焼き含む典型的な朝食を。

しかし何故慎森は、朝食にこだわったのだろう。彼らは基本的にはいつも夜に会っていて、この時も夜にもかかわらず朝食にこだわった。どう解釈すればよいのだろう。

元夫仲間にお土産を買ってくる慎森

しかもおそろいでは無いが英字繋がりTシャツ。慎森は、お土産を買ってくるほどに他の二人に仲間意識持っているのか。というか、お土産否定派じゃなかったっけ?慎森の考え方が変わったのではなく、恐らく形骸化したお土産文化を慎森は否定して、心を込めて贈りたいというお土産は否定してはいないのだろう。

謝る見本の時の鹿太郎のパーカのフード

毎回頭を下げる度にフードが掛かるのがあざとくて良い。あざとすぎる。こういう動きで魅せるの動画の基本という感じで面白い。

というより、鹿太郎を演じるのは、お笑いトリオ東京03の角田 晃広氏なので、まさに本領発揮。このシーンは完全にコントだった。

パーカー

『大豆田とわ子と三人の元夫』ではパーカがよく出てくるが、最終話で、唄と鹿太郎がパーカーを着ていた。唄は以前も着ていたNational Geographicのパーカで、フードの紐付き。高校生らしく着ている。一方の鹿太郎は…、フードの紐の外れたパーカ。これ、かごめのパーカに寄せてきていないか?

去った人たち

元夫に絡んだ3人の女、とわ子に絡んだ小鳥遊と、このドラマでは複数の人物がとわ子の周りで恋をして、とわ子の生活圏から去っていく。彼女らは、一時はとわ子にとって実在する人間であるが、今はもう存在しないことと同じになっている。絶対会えないわけではないが、かごめよりもとわ子の心の中にいない。そういう日常のリアルさをうまく描いているように見える。それがラストで3人の女には、とわ子が歩きながら、すれ違う。すれ違うが顔を知らないからすれ違うだけなのがまた良いし、小鳥遊には会わないのもまた良い。

というより、このドラマ、空想シーンはあったが、回想シーンって有ったか?記憶がないが、全て今現在起きていることを描いているような気がする。違ったっけ?そうだとすると、更に色々合点がいく。

船長詐欺師

ちゃんとまた出てきた。しかし詐欺師としての報道写真のみなのが良い。で、代わりに海から陸を飛ばして空に移って、初恋の人属性を持った上位互換機が出てきた。船長の次はヘリ操縦士。似たような写真撮られてるのがまたなんとも詐欺師っぽいが、こういうとこなんだろな、とわ子の弱いとこ。ただ、もう最終回なので、時間切れでその後は無し。ただ、初恋の人との会話は、初恋当時のノリの会話で、中身も全くない。これ、初恋の人もとわ子も悪いわけではなく、今のことなど全く知らないところからのスタートで、当時の記憶で話すしかないから仕方がないだろう。

しかしそれにしても、マドロス船長に引っかかってモザイクありとは言えネットで顔を晒されたのに、よく同じように拳振り上げて「しゅっぱーつ」できるな。こういうところだぞ、とわ子の分からないところは。

別れた人もちゃんと別々の人生を生きている

マドロスも三人の女も消えて無くなったわけではなく、とわ子の周辺からいなくなっても、ちゃんと彼らには彼らの人生が続いている。このことは、マーさんの話でも描かれていたし、とわ子と父親の会話でも描かれていた。自分の人生は自分中心で回っているけれど、他の人は他の人で自分中心に回っている。自分の周りから居なくなってもその人の人生がなくなるわけでは無い。別れたその瞬間も、その少し後も、ずっと後も、その人の人生は、その人を主人公として続いている。元夫3人がとわ子の家に押しかけた際に、鹿太郎は慎森に、世界が自分中心で回っていると思っていると言うくだりがあるが、

"Life goes on."

これが最終回、いや、『大豆田とわ子と三人の元夫』全体を通じたテーマの1つなのだろう。人生色々起きるけど、毎日を生きていかなくちゃという感じか。

ところで、一瞬会社絡みでとわ子に変に絡んできた門谷社長の消息はどうなったのだろう。とわ子も視聴者の誰も知らなくても、門谷の人生もまた今も続いている。それが『大豆田とわ子と三人の元夫』の世界ということか?

詐欺船長は最終回にカメオ出演ではあるが出てきたが、門谷と小鳥遊は出てこなかった。意味があるのかないのか。そもそも門谷の話はぶつ切りで終わっている。詐欺船長は、とわ子の意思と関係なく飛び込んできたネットニュースだから仕方がないが、門谷と小鳥遊は、とわ子視点では、もう記憶の外の人間なのだろう。だから描かれなかったと。

唄の受験再決意

唄が西園寺くんと決別し、再度医学部受験を目指すことになってめでたしめでたしと言いたいところだが、何故、唄は自分より合格可能性が高い西園寺くんを合格させることで、自分は合格しなくとも良いと判断したのだろう。西園寺くんが医者ならば良い。しかし、医大生でさえない。これから受験して合格して大学で勉強し、試験に合格して初めて医者になれる。それまで尽くせるかもしれないが、医学部受験生より医学部生、医学部生より医者の方が、同じように玉の輿を狙う者が増えていくことは考えるまでもない。結婚という関門突破までに戦わなければいけないライバルがどれだけいるというのか。合理的に考えることが比較的上手いように描かれていた唄が、この基本的なところで、誤ちを犯しているのよく分からなかった。いずれにせよ、唄も目が覚めて再度医学部を受験すると決めたようなので、今後の唄の恋愛も心配だが、喫緊の危機は脱した…のだが、そもそも、医者になるという目標が、金銭目的に見えることが、分からなくもないが間違っているように思える。唄の人生の関心事はそこなのかと。

女性の手に職

マーさんの自宅。とわ子の自宅と比べて質素なものだった。とわ子の母も、マーさんへの手紙を入れた箱はお菓子の箱だったが、シロクマハウジングの先代社長なのでしっかりとした手に職があった。とわ子は後継社長である。相応の収入を得ているはずだ。マーさんの生活環境は、とわ子との資産面の違いを浮き彫りにしている。何故とわ子が資産的に豊かかといえば、夫と娘の世話を義務付けられたと嘆いた母親の教育によるものだ。一人で生きていけるための資格、恐らく一級建築士、を持っているから、生きてこられた。この流れで、唄も手に職の位置付けで医者になると言っていたと思われる。とわ子の母親の思想が、孫の代に受け継がれたということ。そういう流れの中に、とわ子の母が愛したマーさんの話。マーさんの話は、LGBTの話とともに、女性の職業的地位のひくさも含んだ、より広いジェンダーの問題を描いているのではないか。

タイトル通り

『大豆田とわ子と三人の元夫』というタイトル通り、ドラマの中で新しく登場した何人もの男達は、ことごとく一掃され、最終的には大豆田とわ子と三人の元夫に戻ってるの凄いことかもしれない。

しかしこの三人は、とわ子が八作と付き合い、結婚し、唄が生まれ、離婚し、鹿太郎と付き合い、結婚し、離婚し、慎森と付き合い、結婚し、離婚した後からスタートした関係ということなんだよね。それとも、慎森と結婚していた時に、既に鹿太郎はとわ子の周りをウロウロしていたとしたら、軽いホラー