戦争が終わると言うことは、街で暮らす人々の生活の何が終わり、何が始まるということなのかを淡々と描いていく週。
- episode 016 (11月22日)
- episode 017 (11月23日)
- episode 018 (11月24日)
- episode 019 (11月25日)
- episode 020 (11月26日)
- 第4週の最初と最後は神社で
episode 016 (11月22日)
寝間着で布団の上で、持っていてと稔が安子に英語の辞書を渡すシーン。これがラブシーンで、妊娠を象徴しているのだろう。だからこのシーンに被さるように、
安子が稔の子をみごもっていると気が付いたのは、稔が出征してからふた月後のことでした
というナレーションが入った。
義姉さんと呼ぶ勇
呼び方が「あんこ」から変わる。結婚が家と家のものであるということを勇も認識していることがこれで分かる。
しかし、勇が義姉さんと言うの、最初は抵抗あったんじゃあないかな。
お腹の赤ちゃんが蹴った
お腹の赤ちゃんが蹴ったのを手を当てて確認するというやりとりは普通は夫婦でするもの。それを勇が代わりにやっている。しかも勇も徴兵されて帰省しているというタイミング。
稔は横須賀で訓練
海軍ということか…訓練が終わり戦地に行く場合、乗っていた船がやられたら消息は不明で一律戦死とされるパターンかもしれない。生存しても戦死しても悲劇しか想像できない。
稔は戦死したものとして勇が安子と再婚したら戦後何年かして帰ってきたとか、悲劇。
男の子?おなごの子?
おなごの子という言い方が可愛らしい。おなごの中に既に「子」の意味あるから二重になるのに、そこが可愛い。
命名 るい
珍奇な名前と稔の父千吉は言うが、ルイ・アームストロングもそうだが、そもそもフランス国王の名前だったりする。しかし勇は的外れながら説得力ある野球の塁だと説明してみせる。本当の理由を靖子は知っているのだが、戦時中には言えないというのがなんとも悲しい。
義母が家畜米英と叫ぶ中、英語の歌を子守唄にする安子
こういう対比はゾクッとくる。
入隊当日のシーンなし
算太も勇も入隊当日に家族と別れるシーンがあった。しかし稔にそのシーンはなし。何か意味があるのかないのか。あと、稔はるいが生まれるきっかけを作って出征し、勇はルイが生まれたのを見届けて出征する。何か示唆的。
episode 017 (11月23日)
遂に岡山大空襲が起きる。一夜にして全てが変わった。しかし、まだ何がどう変わったか完全に知るのは明日以降。ごく身近な人的被害は雉真家は無し、橘家は父母。そこまでは分かったが、店舗、工場、自宅等の資産がどうなったかは不明。
今回は、かなり説明調のストーリーで、次回からの設定を提示しただけの回。あまり内容はない感じ。
オープニング
安子が『たちばな』に入ってくる。ガラス戸にはガラス片飛散防止用テープが貼られている。少年時代の勇が友達と共に食べに来た時や帰省時に稔が買いに来た時と違い、菓子陳列用のケースには何も置いていない。のれんも室内に掛けている。店番もいない。何もかもが戦争前と異なっている。しかしこれもエンディングでは全て焼けて無になる。オープニングでは菓子は無いが店はあった。しかしエンディングでは店も無い。
お汁粉
安子の祖母が、るいの為に貴重な小豆砂糖を使ったお汁粉を作った。ガラス戸には空襲に備えてテープが施されているのが戦争激化を表している。祖母、母、安子、るいの4世代の幸せなひととき。
安子が生まれた時の話で、紅白饅頭を作って近所に振舞ったとか、家に近所の人を上げてご馳走でもてなしたとか、るいの時との違いが描かれている。小せえ菓子屋でもこれだけのことが戦前ははできたということ。
祖母が作ったお汁粉は、るいに食べさせるシーンのみ描かれ、安子にも食べるかと誰も言わないし、祖母も母も食べてはいない。小豆も砂糖もあまりに貴重だが、るいが来てくれた嬉しさにるいの分だけ作ったという可能性があるかもしれない。そうだとすれば、だからこそ安子が生まれた時の近所に紅白饅頭を振る舞ったという話をした時の母小しずが何を思っていたのかを考えると複雑な思いである。
とっておきの小豆と砂糖。大切にとっておいたのに、空襲でこれらも燃えてしまったのだろう。
疎開するきぬちゃん
お別れ。空襲は免れたのかな。
とってつけた様に現れたが、次はいつ会えるのだろうか。そもそも次に会えるのだろうか。
赤螺父子
母と二人で京都に行きたいと言われ、挙句にあこぎなケチ兵衛と息子吉右衛門から言われた吉兵衛。しかし京都に行く前に空襲に遭い、吉兵衛は亡くなる。吉右衛門のその後はこれから描かれるのだろうか。しかし吉兵衛が亡くなり、母とも離れ離れになった吉右衛門はどうなるのだろう。せっかく集めた吉兵衛の商売ものも焼けてしまっただろうし。吉右衛門が、京都に行こうと言っていたのがまた悲しい。京都は空襲がなかったから。
吉右衛門のこれからは、母に会えなければ、ケチ兵衛の悪い評判という負の遺産と、吉右衛門のこれまでの功徳の収支がプラスかマイナスかにかかっている。結構怖い話になるのか楽観的な話になるのか。ただ、なんとなく、金太とともに生きていくような気がする。逆にもう綺麗事言っていられない生きる為になんでもやる人間になってしまうと言うのも考えられるが、そんな吉右衛門は見たくない。
結果論だが、吉兵衛が大漁と喜んでいた二束三文で買い叩いたタバコ屋の婆さんの家財道具は、結局焼けてしまったので、ある意味二束三文でも金になったタバコ屋の婆さんの方が得をしたことになるのは皮肉。しかも「戦争が終わったら高う売れるで」と言った吉兵衛本人も、その家財も、空襲により、戦争が終わる前になくなってしまった。
いずれにせよ、赤螺ケチ兵衛の因果を子供なのに人格者の吉右衛門が受けることになるのは悲劇でしかない。
ただ、ケチ兵衛のやろうとしていたことは、ビジネスとしては真っ当なことではあった。それを近所の人々を相手にしたことが間違っていただけ。しかしケチ兵衛がせっかく溜め込んだ道具類も空襲で丸焼けになり、恐らく吉右衛門に残されたものは何もないのだろう。吉兵衛の頑張りは無になった。焼け跡で、『あかにし』の看板だけは店名が読める程度に残っていたことは、何を象徴するのだろうか。単に安子が立っていた場所を視聴者に知らせるだけかもしれないが。つまり金太が座っていたのは店先だと。
橘家
父が茫然自失。母、祖母は空襲で亡くなる。
雉真家
義父、義母、安子、るいの全員が無事に生存。工場が心配。
生産と破壊
第16話で、勇が安子を義姉さんと呼んだり、るいが生まれたりと、家族関係に生産的変化が生まれたが、第16話では、安子の母と祖母が空襲の犠牲になるという家族関係の破壊が描かれた。ほんの1話で大きな変化。戦争の恐ろしさ。
振り返ると岡山城が燃えていた
岡山のシンボル、岡山城が燃えるシーンを安子の避難途中に描いている。心が折れることが起きる前触れとしての描写かもしれない。
終戦まであと1ヶ月半の1945年6月29日の出来事。あとたった1ヶ月半なのに。
おはぎとお汁粉
赤ちゃん用の薄いお汁粉が出てきたが、『たちばな』は、あんこの美味いおはぎが自慢の菓子屋だった。しかし、小豆と砂糖をたくさん使うおはぎが消え、お汁粉も安子の結婚前には、稔の父に振る舞ったりしていたが、今では赤ちゃんのみに食べさせている。舞台が菓子屋らしくあんこに食生活の窮乏を語らせている。
青みがかった画面
空襲が明けた後、安子が一人で橘の家族を探しに防空壕を出てからのシーン。画面全体が青みがかっている。これは戦争映画でよくある演出。もしくは記録映画で色が落ちてしまった様な映像。ただしここでは陽が昇りかけた、まだ薄暗い時に待ちきれずに安子は実家に向かったことを表す演出かもしれない。
気になったこと
橘家の金太は小しずらを防空壕に残し消化にあたった。一方、雉真家の千吉は安子らと防空壕に入っていた。この違いはどこからくるのだろう。土地における力の差かもしくは個人の考えか。それとも年齢の違いか。この辺りは当時なら当然の違いと言えるのかもしれないが、戦後世代には分からない。
episode 018 (11月24日)
雉真家の家屋は無事。
ことごとく運の強い雉真千吉。倒れた金太の看病をする安子に休めと言う千吉。この人はずっと根は優しい人で通している。これが強運の源なのか。
オープニング曲の直後に玉音放送。ポツダム宣言受諾のくだりでハッとした感じで顔を少し上げる義父千吉。玉音放送が終わっても理解できない義母美都里。安子はそのタイミングでは映っていないので意味をわかったか否か不明。日本が負けたと聞いて美都里の考えたことは、稔も勇も帰ってくると言うこと。少し声がうわずって嬉しそうだった。一方、金太は再度号泣。戦争に負けたのなら、なぜ人的損失を受けねばならなかったのかと悲しんだのだろう。その後は再びとにかく無気力。
金太の心と体は回復しませんでした
あっさりとして残酷なナレーション。
岡山大空襲は6月29日で玉音放送は8月15日。1ヶ月半経過しても金太は伏せったままということ。その間の苦悩を短いナレーションで表す残酷さ。
あんこが食べてぇと言ってみる安子
安子が小豆を手に入れ、お供えのおはぎを作ろう、教えてと言っても、無反応の父金太。
しかたなく安子は一人で、
おいしゅうなれ、おいしゅうなれ
この呪文を唱えて小豆を炊いても金太は復活しない。次はおはぎを作ってみる安子。今度は無理強いして食べさせようとするが、拒絶される。しかし、安子が部屋を出た後、指に取って一舐めし、金太は一気に復活する。次回、金太は完全復活なるのだろうか。
とにかく、安子のまずいあんこ及びおはぎにより金太は生きる気力を取り戻し始めた。
安子の合理的な進め方
安子は英語を自発的に学び始めたことを除き、特に高等教育を受けた印象は無いが、金太に対する対応は、合理的であるように見える。
まず、①おはぎがたべてぇから一緒に作ろう、教えて、と言ってみる。これで金太が作り始めたら、それに越したことはない。これに対して反応がなかったので、今度は②あんこを作って食べさせようとする。これでもダメ。あんこは『たちばな』の大切なものであるが金太は反応しない。そこで安子は③店の看板商品であるおはぎ自体を作り食べさせようとする。もうここまでくると安子も意地になっている。しかしここで金太はやる気を見せる。一旦金太が大雨の中、飛び出すという行動の後の、心配してやってきた安子とのやりとり。ここはやられる。最初は①教えてとお願い、次は②あんこを作り、最後は③おはぎまで作る…家を飛び出すところは安子の想定外であろうが、金太の侵されたくない領分を、やらないなら自分がやるという形で少しずつ侵食するように進めていく安子の方法は、合理性を感じる。
金太にとっての砂糖
どれほどの価値があるものなのか想像できない。同じ重さの金が目の前にあっても、砂糖を取るだろうなと思わせるほどに、雨の中探していた眼差しは一途だった。
あずきが手に入ったからこそ
安子が手に入れたのが小豆ではなく砂糖だったら、今回の話はうまくいかなかった。小豆だったからこその良い話。まあ、そこは仕方ない。ただし、代用砂糖は摂取量によっては毒だったりするから、味云々よりそっちが危険なのだけれど、ものがない時代だから仕方がない。とにかく砂糖は本物が手に入ったので、金太の復活は次回に期待だが、おはぎの最初の1つ目はやはり世話になった雉真千吉に食べてもらうのだろうなぁ。
安子の睡眠時間
安子が小豆を煮るシーンの前に、義父母、娘が寝ているカットが入れられている。つまり安子は、1日の仕事をした後に、睡眠時間を削って金太のためにあんこを煮ていた。父を思う気持ちが勝っているから耐えられるのかもしれないが、倒れないか心配になる。そんな時に、当の金太はずっと布団の中というのが皮肉。
金太が気づいたこと
金太が気力を取り戻したのは、妻や母を失った悲しみが癒えたり、妻や母に笑われない人生を生きたいと思ったとかではなくて、安子が自分も悲しいにも関わらず、ずっと自分のために尽くしてくれて、それでもついに「お父さん!」と強く言われたことに、恥ずかしさを感じたからではないだろうか。もしくは、妻、母と血の繋がる安子の声に、妻の声、母の声を見出したとかそんな感じの。いずれにせよ、安子は、母、祖母を亡くし、父は魂が抜けた様になっていたのだから父の看病の分、金太より負荷が高いのに、なんとか精神も肉体も保っていたのは何の力だったのだろう。
雉真家
ナレーションでは家屋は無事とは言っていたが、工場や材料が無事とは言っていなかった。ストーリー上は、岡山大空襲から時間が経っているが、こららについてはドラマの中で言及されないまま。ただ、安子が実父金太のためだけに小豆を手に入れたり、金太をずっと居候させていることから、生活は厳しくは無い模様。
『たちばな』の再開
雉真からお金を借りて小豆や砂糖を闇市で買い、おはぎを作って、闇市ではなく、裕福な家に売る。こんな感じで『たちばな』を再興できるのではないかな。考えが甘いか?甘い…ことは菓子屋では良いことだけれども。
赤螺吉右衛門の安否
不明というか、何も言及されなかった。せめて母と会えていて欲しいが、孤児となり、生きるために盗みを働いていたりしそうな気もする。あの、人格者の吉右衛門が。
吉右衛門の考えられる未来で、生きるために盗みを働くことなどは時代から見て仕方ないことで、そんなことより最悪なのは、人に騙されまくってズタボロになること。
玉音放送前後でガラス戸のテープの有無が変わる芸の細かさ
もう空襲の恐れがなくなったということから、金太の寝ている部屋のガラス戸のテープが剥がされている。しかもテープが貼ってあった跡は残っている美術の芸の細かさ。本当に芸が細かい。
産みたて卵と今朝とれたての卵
その違いがわからない。産みたての方が新鮮なのか、今朝とれたての方が新鮮なのか。この符牒が分からないと闇市での購入はうまくやっていけないということか。無理。
カメラは岡山を出ない
映像が、回想も含め岡山であったことしか映していない。戦地の稔、勇、算太の姿や疎開しているであろうきぬちゃんの姿も一切映さない。今のところこれは徹底している。
episode 019 (11月25日)
遂に金太復活なのだが…
何故にそこで亡くなるのか。物語の役割として終わった以外に必然性はない様に思える。
"おはぎ"と"おはぎのようなもの"
金太が復活して最初に作ったおはぎには大量のというか、適量の砂糖が使われていたことがわかる。瓦礫の下から見つけた全てもしくは全てに近い量を投入したと思われる。これが雉真夫妻に振る舞われた。タミさんにも振る舞われているのが良い。この本物の砂糖を使ったおはぎは、本当に美味しかっただろう。雉真千吉は、おはぎの味がわかる人であり、伏せっていた金太の面倒を見た人間でもあるので、この貴重なおはぎを食べる資格がある人間である。また、貴重な砂糖をふんだんに使った本物のおはぎを、雉真夫妻のみならずお手伝いさんにも振る舞ったのは、空襲以降世話になりっぱなしの人たちへの恩返しの意味を持ち、ストーリーとしては、立つ鳥跡を濁さず的な意味を持つ。
ずっと世話になった雉真家の方々へにおはぎでお礼する。金太にはこれしかできないし、逆にこれは金太にしかできない。
商売に使っているのは、ナレーションで言及されたが、サッカリンを使用したもので、中身も安子が言うようにサツマイモであり、"おはぎのようなもの"である。金太にとっては不本意だろうが、それでも菓子を作ることさえできなかった戦争中に比べれば幸せだっただろう。
戦後の売り物を"おはぎ"ではなく"おはぎのようなもの"と呼んでいるのは、金太の実直さを感じる。"芋おはぎ"等のもっと売れそうなネーミングがあるだろうに。おはぎを取って食べた子には商才を問うたのに、自分は実直なのは、金太が商人ではなく職人気質であることが分かる。
ファンタジー
算太が生還したくだりは、結局、金太の頭の中のファンタジーだったという解釈か。そうではなく、合理的解釈をしようとすると、おはぎを盗んだ子供は帰って来ず、たまたま算太の帰還が重なったという解釈になる。そして、そのとき既に金太の頭の中は混乱していたということか。
そうなると、亡くなる直前の金太の夢の中に算太が現れたというのは、算太がお迎えに来たということもファンタジーとしてはあり得る。それは算太が既にあちら側にいることになるので、現世に残る安子には一番過酷なことであるのだが、そうなってしまうのだろうか。金太の賭けの結果の真実は、まだ分からないが、金太の中では賭けに勝っているということ。
算太は結局…
帰ってきたのか否かは、ちょっと今回だけでは分からない。金太が算太と思っていたのは戻ってきた少年だったが、それを意識混濁した金太が算太と思い込んだと見る方が、おはぎをご婦人に売るという話からは自然だから。
ただ、算太が帰還しないと、『たちばな』のあんこの味は、金太の死で途絶えたことになってしまう。算太は菓子作りの修行は、修めていないが、本物のわかる舌がある。つまり、元従業員が集まれば、算太の指揮で『たちばな』の味を再現できる。もし算太が戦死していたら…安子の舌に賭けるしかない。現時点で、『たちばな』のあんこは途絶えてしまった。舌が利くといういみでは雉真千吉も可能性ある。
算太という名前
おはぎを盗んだ子供に対し、おはぎの箱を1箱渡し、自分の商才で儲けを出せと金太は言う。算太の「算」の字は、商才を象徴しているのではないだろうか。金太自身は職人気質で商才がないことを知っており、自分の子に商才に優れた子になれという願いを込めたのではないだろうか。そうなると、おはぎを盗んだ子に算太を重ねて賭けに出た行為は納得できる。
おはぎを盗んだ子供
吉右衛門でなくて良かったと思うしかない。しかしこういう子供がまず描かれたということはこの先、吉右衛門が同じ様になっていることの布石とも言える。
考えてみれば、あの子供、おはぎの箱を持っていったが、「それ、盗品だろう」等、誰かに難癖つけられて取られてしまう未来もありうる。金太の行為は実はあの子どもの更生には役に立たず、単に金太の自己満足というか賭けだけに終わる可能性がある。
episode 020 (11月26日)
『カムカムエヴリバディ』というタイトルなのに、全然人がカムカムしてこないで、元々いた人が亡くなるばかり。まだ1世代目とはいえ酷い。
金太のお葬式後から始まる
心臓が弱かったと後付けで知る。店は安子が片付けている。その場にるいはいないので、義母が面倒を見てくれているのだろう。
金太死亡の第一発見者の少年
あの時の少年。おはぎを2つ食べたら元気が出て持ち逃げせず売る気になったとか、まさに金太の思いを体現した少年だった。安子からは、この少年と一緒に『たちばな』を続けようという言葉は出ず、自分で稼いだお金を少年に持たせるのが安子にできることだった。雉真家の嫁としての仕事もあるから仕方ない。しかし金太なら少年を算太に重ねて店を手伝わせる選択肢もあっただろうが。あの少年に家族がいたらおはぎを家族にも食べさせようとするだろうから、少年は孤児。しかし孤児は一人ということはなく、孤児同士集まって行動する気がする。そうなるとやはり仲間の孤児にもおはぎを配ってしまう気がするのだが。いずれにせよ、この少年はおはぎを売ってお金を稼いだ。
実用英語会話の再開
ラジオの英語放送が再開された。流れてきたのは『基礎英語』。
安子は予め再開を知っていたわけではなく、ラジオから突然流れる英語で知ると。そういうものなのだろう。しかし1945年11月という戦後すぐの時にテキストを買うお金があるのか…雉真家。主力工場が1つ焼けても財は保っている。勇は帰還したらバットの素振りをしているし、雉真家は生活の余裕というか文化度が非常に高い。家を焼かれなかったのも大きい。
最初に帰還したのは勇、次は…
稔の代わりに死亡告知書1枚が来た。算太は未だ消息不明。吉右衛門も不明。
しかし、稔については、軍服姿というか、出征シーンも戦地でのシーンもなく、いつの間にかいなくなっていつの間にか死亡したことになっていた。この表現方法は、下手に稔について描写するより怖い。岡山と戦地は別の世界だということなのだろう。
単に描写だけの話かもしれないが、安子は既に雉真の人間になっていて、算太のことは余り気にしていないような気がする。稔よりは優先順位が低いのは仕方がないけれど、何となく算太の扱いが可哀想。それだけのことをした男でもあるけれど。
稔の死因
死亡告知書は届いたが、死因は視聴者には明かされていない…餓死の可能性あるかな。戦時中にも関わらず鯛のお造りや牛の焼き肉を食べていたのに。そうだとすると物語として更に残酷だと思う。配属が海軍のようだからそれはないかな。
勇の安子に対する感情
どうなるのだろう。諦めた「好き」という感情が戻るのではないか。安子の方は、肉親を失い不安定な状況であるし。
勇は突然跡取りになったわけで、同じ大学に進むにしても経営者になるために学問を修めに行った稔と違って、野球するために行った勇なので、経営学を1から学ばないといけない。急なことで本人も戸惑うだろうが、家のためということで、次期社長になるべく頑張るのだろう。
日向の道
恐ろしいことに、稔の死亡告知書が届き、ショックで走り出した安子が走っているのは日向の道。最後神社の前で崩れ落ちた時は、太陽が真上に昇っているのか安子自身の影もない。そんな日向にいるのに、安子の心は暗闇の中。真っ暗な神社の中から陽の光を浴びて影のない安子を映すシーンでは、この世とあの世を同時に描写しているようにも思える。
岡山にいない人は描写しない
やはりこのドラマでは、描写されるのは岡山にいる人だけ。例外としては大阪時代の稔。戦争になったら、戦地の描写は全くない。帰還した勇さえ岡山に戻るまで描写なし。安子の身の回りの物語、安子が知りうる範囲の世界の物語ということ。
小笠原
勇は配属を聞かれ、「小笠原じゃ」とあっさり答えていたが、小笠原諸島は硫黄島を含む激戦地。勇も過酷な環境にいたはずで、生死は運だと分かっていたと思われる。だから、母のちょっとした「良かった」という発言に反応して言葉を荒げてしまったのだろう。
第4週の最初と最後は神社で
今週の月曜、第16話は、安子と学生服姿の稔が神社で手を合わせ、稔が、
早う戦争が終わって欲しい。どこの国とも自由に行き来できる。どこの国の音楽でも自由に聴ける。僕らの子供にゃあ…そんな世界を生きて欲しい。
と言うシーンから始まっている。
そして、金曜、第20話は、安子が一人、崩れ落ち、
意地悪せんで。帰ってきて…稔さん!稔さん!
と泣くシーンで終わる。第4週を通しで見る方々の動揺が想像できる。