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【恋せぬふたり】第2話 視聴者向け説明に費やされた回


咲子と高橋の同居の合理性につき、咲子の家族に説明する体裁で、実は第2話全部を使って視聴者に説明している回。そうでありながら違和感なくストーリーも先に進行しているの心地よい。

変化球的成り行き同居の視聴者向け説明

展開がかなり強引というか、成り行きで同居することになるドラマの同居のきっかけは、変化球に決まっていて、変化球ゆえに視聴者に納得のいく合理性を説明しなければならないのだが、それが中々難しいみたいで、説明調になりがち。このドラマも同じで、咲子と高橋の長い会話を使って視聴者に同居を始める理由が説明される。偶然出会った2人の人間が短期間で同居を決意することの説明で、これからのドラマ展開の重要な設定だから、これはまあ、仕方ないこと。

しかしこれで咲子と高橋の関係を視聴者にしっかり説明できたので、次の第3話からは、ストーリーが大きく動くはず。これは楽しみ。

咲子と高橋の会話

完全にずれまくっているのが良い。高橋は、家のことは全てやるし、家賃の話は良いというし、基本相手を立てるのだけれど、主張はガンガンしてくる。同居により近所のお節介がなくなったことの対価として、恋人に擬態するということを自ら申し出るとか…わけわからん。蟹という言葉に惹かれた風に見えるが、コメディとはいえ、それがメインと言うにはさすがにコメディ過ぎる。

恋しない人はいない

男は台所に立つものではないに始まる咲子の母のステレオタイプな発言が、咲子の心に確実に針を刺していき、最後は爆発する。他の家族も無意識に咲子の心に針を刺すが、母親が一番尖った針を刺してくる。無意識に。この咲子と高橋への言葉の攻撃は、咲子の家に向かう路上で妹夫婦と会った時から始まっている。いや、そもそも彼氏を家に連れてこいという話が出たところから始まっている。ほんの少しの違和感から始まり、最後の最後に咲子が爆発してしまう展開は納得感ある。

朝食は、ごはんかパンか

その選択で悩んで、朝食は手打ちうどんに行き着くと言うの非論理的。非論理的であるが、理解できる…と普通のドラマではなりそうだが、これは理解できない。なんだろ、このセリフの意味。固定観念にとらわれない、二択にこだわる必要はない…そんな感じなのかな。

高橋は、咲子が朝食用にカップ麺を買ってきて拒否しないの良い。自分が用意するときは手打ちうどんなのに、カップ麺でも良いという、手打ちにこだわらないのは良い。咲子が躊躇わずにカップ麺買ってきてるのも良い。

ただ、朝食はご飯かパンかという話。これ、咲子母の「恋しない人はいない」のような男女関係におけるマジョリティの決めつけに対するものと読める。高橋が、ご飯とパンで悩んだが、うどんにしたというのは、朝食とはこうあるものという決めつけは、各人の中にはあっても良いが、他者に押し付けるものではないということ。特に多数派が主張すべきものではないと。朝食はご飯派とパン派がマジョリティで、うどんと言うのはマイノリティだが、それも各人の自由でしょと。高橋は、以上を踏まえてご飯とパンと比べた上で、敢えてうどんにしたのではないかな。

家族は強いていえば味方

この表現は、家族について説明する普遍的な表現である気がする。ただ、ちょっと一般化しすぎている感じもあるので、やはり家族は家族と言うしかないのかもしれない。ただ、その構成が様々なものを許容すべきということ。

咲子役を岸井ゆきの氏が演じること

感覚的であるが、咲子役を岸井ゆきの氏が演じていること自体がステレオタイプな気がする。繊細でありながら、相手が誰であっても、言うべきと思ったら言いたいことを言うキャラを三次元化したような俳優という印象。ドラマだから仕方ないとも言えそうだが、そういうところだぞ!という気がしてならない。咲子という役を、そんなこと言いそうにない別の俳優が演じたら、全く違うドラマになった気がする。配役が良い悪いということではなく、ドラマの意味と位置付けが変わるだろうということ。