このドラマ、これまでの3回を見るに、対応するトラブルが社会問題も絡ませたシリアスなものばかり。それを、困っている人を放っておけない性格のチカラが赤の他人として介入して一応の決着をみる話なのだが…そもそも他人のプライベートなトラブルに自らの意思で絡むのだから、関わるのにはそれなりの覚悟がいるはずで、この第3話でも、チカラはその覚悟を試される。それは良いのだが、しかし結末が…ファンタジーだった。これは酷い。問題を視聴者に提示しても終わり方が…制作側が問題の大きさを処理しきれていない感じ。
助けるとは責任を取りに行くこと
他者と他者の問題に顔を突っ込むというのは、責任も引き受けることになることが、余りわかっていないのかな。そういう設定のドラマだからというのはそうなのだけれど。
ふざけた取り扱いはしていない…
ただし、ドラマ的に面白いとも言えない。問題を採り上げるのだが、採り上げるだけという感じ。で、何かよくわからないうちに1話分の時間が来て解決しているという感じ。盛り上げがないからかもしれない。扱う素材がヘビィすぎて、表面をなぞることしかできていないのだろう。特に今回扱うテーマは複合的な問題であるので、問題の表面をエピソードでなぞって終わり。それでは話に盛り上がりも何もないので、妻の灯がことある毎に騒ぐことで盛り上げている。灯がエキサイトすると英語になるという設定も、この設定がなければ、地味で盛り上がりを描くテーマだから。しかし、問題から目を逸らさないという意味では、このドラマには一定の価値はあると思う。
結末
ファンタジーだった。だからダメとは言わないが、何も本質的なことは解決していない。マリアさんの今後の人生は幸せに満ちているとも思えない。確かに人生に選択はつきものであるし、人に騙されることもある。しかし、他人の不幸に自ら顔を突っ込んで他人の人生を左右する行動をとるというのは、責任が伴うということに気づかないままのチカラには、ただただ呆れるばかりである。
公式Twitterが「お節介」という表現を使っている
チカラのお節介が 国境を越える
これは人それぞれなのだが、感覚的には、お節介と言える程度を超えている。他人のプライベートな話になればなるほど立ち入ることはできないという感覚が、チカラには無い。お節介とは関与の態度に応じた責任を伴うことであるから、自分が責任を取れない、取りたくないほど深いプライベートなところには、普通は立ち入らない。しかしチカラにはこの深さに応じた責任を取る感覚が欠落しているようで、眼の前に困った人がいれば、反射的に関与する感じ。逆に解決策も表面的にカタがつけばそれで終わりと考えている。お節介という語は、余計な世話を焼くと言う意味だが、チカラの関与する他人の問題は、通常の人がお節介を焼こうとする程度を越えている。だからこそ責任も大きくなるのだが、チカラというか、制作側は、今のところ、表面的一時的解決でハッピーエンドとして終わらせて満足しているので、観ている側としては、モヤモヤする。それでは根本的なことが解決していないと。これについては、後半に扱われるのかもしれない。そうであれば、このドラマの見方が変わる。