一見、古い家にとらわれる考えの重子と、旧弊にとらわれない暢子との対立に見える。しかし、旧弊にとらわれないということは、他者を顧みないと言うことではない。暢子は他者の権利を尊重しながら自分の権利を尊重する考えではなく、暢子か暢子以外か的な思想なので、旧弊はあまり良くないと思う視聴者も、だからと言って暢子の個人主義も応援できるかと言うと、そうも言えない。なかなか微妙なところを突いてくる。
実は古い考え方だったりする暢子
朝食を喫茶店で食べるのは、重子の毎日の習慣。これを暢子は、朝から外食かと驚くのだが…それは個人の自由。朝食は自宅で食べるものというのは、ある意味暢子の方が古い考え方。
相手を自分と相対化できない暢子
朝から外食と言って驚いて見せるのは、暢子は自分の知る範囲でしか是非の判断ができないということ。他の考え方があることを理解できていない。その点では、話が通じないと言う重子は、人により考え方が異なることを前提にしており、暢子と違い自分が絶対的な正義とは思っていない。
相手の都合を考えない暢子
暢子は、重子の習慣を無視して、毎日弁当を届ける、しかも初日は予告なしに持参しているようで、これは押し売りである。また、目的が自分と和彦の結婚を認めてほしいと言うものなので、善意の押し売りでさえない。完全に自分のためだけの弁当押し付け。
重子の論理展開
重子は、確かに旧い考えにとらわれた発言が多い。しかし、それらを、暢子や家族の言動から例示することで論理的に説明している。
暢子の思考
一方の暢子は、話が通じないなら胃袋で納得させるという謎理論。重子と違い、論理的ではなく、発想に飛躍が見られる。相手の好みも聞かず、相手は年配だから脂っこいのはダメだと柑橘類を足す程度の一般的な対策しか取らずに、対決に臨もうとしている。この一般的な対応というのは、レストランでは良いだろうが、重子という定まった相手に対するのであれば、重子に直接聞けば、重子の好みに合わせることができる。しかしそれをせずに『あまゆ』での勝負に挑もうとする。これは暢子が、自分が正しいと思うことは、普遍的に正しいはずだという相手の立場を考えない思考からきている。
他人の目を気にしすぎる重子と究極の個人主義の暢子の対決
結局、これに尽きる。重子の言う家の格というのは、身内になった場合に、考え方が自分たちに近い方が安心できるということ。しかし、暢子は自分さえ良ければと言う考えなので、自分に楯突くものは捨てるか服従させるかしかない。他者ならば捨て、身内なら服従させようと言うことだろう。暢子が自分達の結婚において重子の同意にこだわったのもそういうこと。力づくでも良いから、相手を自分の思い通りにしたいと言う考えなのだ。
初回対決は流れる
賢秀の謎の乱入により、『あまゆ』での社会対決は実現しなかった。しかし、実施していたら暢子が不利だったであろう。何の予備調査なく自分が美味しいと考えるものを食べろと言って、自分に対し良い印象を持っていない相手が、美味しいから相手を認めるとなることは期待できないから。
場外戦で大勢を決す
和彦が重子に会いに来ては怒って席を立つを繰り返すことで、和彦が自分の元を完全に去ってしまうのではと重子が焦り始めてしまった。そこに和彦が優しさを見せる手紙を書いてきたことで、重子は精神的に操られた。重子は、育った環境の違う暢子を和彦から引き離すことは諦め、暢子をある程度許容する代わりに、和彦が自分から離れてしまわないようにする方を選び始めた。和彦の拒絶→拒絶→謝罪の和彦コンボが成功したのである。それを援護するように、暢子の恐怖心さえ抱かせる毎朝の弁当攻撃もあった。和彦と暢子が連携したマインドコントロールが成功した瞬間である。怖すぎる。
常識的な危険意識
重子は、暢子の危険性を「話ができない」「格の違い」というような表現で、言っているが、これは自分にとって異質な考えを嫌ったと言える。当時の東京の人々、やんばるの人々的にどうなのかは分からないが、現在の感覚で観る視聴者にとっては、比嘉家は相当にヤバいので、重子の言うことは常識的な危険意識だと感じる人が多いのではないか。