「第三話 秒速5センチメートル」において、貴樹が部屋を出てエレベーターに乗っている際、ポケットから鍵の束を落とす描写がある。このシーンがなぜ挿入されたのか考える。
鍵を落とす直前の描写
成人後付き合った女性と別れた貴樹が独白の形で以下のように言う。
ただ、生活をしているだけで、悲しみはそこここに積もる。日に干したシーツにも、洗面所の歯ブラシにも、携帯電話の履歴にも
この今は、シーツは別れた恋人とベッドを共にした記憶。歯ブラシは、そこにある歯ブラシ自体でなく、歯ブラシ立てにあった元恋人の歯ブラシを思い出させる。携帯電話の履歴は、貴樹がどの程度履歴を残す人間化は分からないが、付き合う以前から別れるまで全て残していれば、やはりそれは悲しい記録となる。この3つは、映像の描写として、今のシーツ、今の歯ブラシ、これはなぜか今の携帯ではなく、部屋のテレビ(もしくはモニター?)を、セリフと共に描くことで表現されている。
流れの中で落とした鍵
このように3つの元恋人との悲しみが積もったモノを描く話に続く形で、エレベーターに乗る貴樹が鍵を落とすのである。ここにセリフはない。しかしこれは、それまでの悲しみが積もったモノの話を受けて描かれるシーンなのである。
落とした鍵の意味
落とした鍵には、3本の鍵がついている。これらはどれも部屋の鍵の大きさである。1つは、貴樹のいま住む部屋のもの。もう1つは恐らく別れた彼女のもの。あれ、さらに後1つ鍵はあるけれど、それはなんだか分からない。とにかく、3本の鍵の内の1つは、付き合っていた元恋人の部屋の鍵であるはずである。だからこそ、シーツ、歯ブラシ、携帯という悲しみの積もったモノの後に置かれるのである。しかも、部屋の鍵は、屋外と屋内を分けるもので、互いの部屋の鍵を持つと言うことは、二人の人間の結びつきを強くするものである。元恋人の部屋の鍵を未だ返せていない事実が、生活をしているだけで積もる悲しみを最も表している。そして、その特別さ故に、この鍵の描写では、シーツや歯ブラシ、携帯の履歴のような貴樹の独白は入らないのである。その意味で、携帯電話の履歴について語る時に、敢えて携帯電話の端末ではなくモニターを描写しているのも、シーツと歯ブラシとの差別化なのかもしれない。
落とした鍵さえも意味がある「秒速5センチメートル」というアニメ
と言うことで、貴樹がエレベーターで鍵を落としたことは、単に貴樹がだらしなくなってしまったとか、無気力になっているとか、そういうことではなく、それまでのストーリーの流れを受けた意味があるのである。まあ、だらしなく、無気力になってもいるようだが。