第1話 血に染まる覇王! の巻
ユリアが言うには、ユリアはラオウに秘孔を突かれる時点で、あと数ヶ月の命だったのだそうだ。
そんな状態で五車星を犠牲にしてケンシロウに会って、ユリアはどのような成果を残すつもりだったのだろう。
ユリアの論理は理解できない。
五車星、なんて人間に仕えてしまったんだ.
かわいそうに…。
第2話 さらば強敵よ! の巻
悪事がなかったことに
ラオウ後の人々を見て、リハクが言う。
「今 この世に光が甦ったのだ」「だが ラオウ ケンシロウ そしてユリア様がいなかったらこの世は永遠に闇に閉ざされていただろう」
…って本当か?たとえそうだとしても、拳王ときて描かれたエピソードは、それ自体が地獄。
有り得んだろう。
恐怖政治するやつや身勝手君、自分のために他人に死んでくれと言える慈母。こいつらがいなかったほうがましな世の中に早くなったのではないか?
単純化すれば、北斗の拳は兄弟喧嘩&痴話喧嘩の話だからねえ。この世がどうのというところまで拡張するのは無理である。
あくまで身内の争い話の枠を出て語ることはできない。
兄弟喧嘩の拡大解釈
しかし、これに合わせるかのようにユリアも言う。
「…この暴力の荒野は恐怖によって統治するより術はなかった」「しかし恐怖による統治に真の安らぎはありません」「統一を果たしたラオウは自分が愛を持つ者に倒されとってかわられる事を願っていたのでは……」
…そんなわけないだろう。
ラオウはケンシロウに負けるなど全く考えていない戦いっぷりだったぞ。
あ、そうか。
「自分が愛を持つ者に倒されとってかわられる事を願っていた」のであるから、他者への愛を持たないケンシロウがまさか自分を倒す愛を持つ者だとは思っていなかったんじゃないだろうか。そう考えれば、辛うじてつじつまが合う。
実際にラオウを倒したケンシロウはユリアを抱いてどっかいっちゃったわけだから、「愛を持つ者に倒されとってかわられる」の「とってかわられる」部分は全く当てはまらない。ケンシロウとユリアにその気は全くない。ラオウは、愛を持つ者に倒されるという願いは達成できなかったか…人生に悔い残してんじゃん。
ケンシロウは完全なる自己中心的人間であるから自己犠牲や世の中のためにという発想などない。ただ、ラオウを倒してユリアと二人で暮らしたいと考えているだけだ。
だから、もしユリアがいうことが真であれば、ケンシロウはラオウを倒すべきではなかったことになる。
ユリアは、ラオウを倒した後に、とってかわる(=ケンシロウと力を合わせて愛で統治する)つもりがないのなら、他にとってかわる者が現れるまで、ラオウを生かしておくべきではなかったか。
ユリアの論法
次に、ユリアの論法をケンシロウやユリア自身の主観ではなく客観的に検証する。
ユリアの論法は次の通りだ。
①この暴力の荒野は恐怖によって統治するより術はなかった
②しかし恐怖による統治に真の安らぎはない
③統一を果たしたラオウは自分が愛を持つ者に倒されとってかわられる事を願っていた
①では、その前段階として「暴力の荒野は統治されなければならない」という考えがあることになる。
この考えがユリアの論の根拠として①から③を見てみよう。
①では、暴力には暴力でしか対抗できないといっている。まあ、これも間違っていると言いきれないだろうからそのまま受け入れよう。
②もそれはそうだ。恐怖と安らぎはどう考えても結びつかない。
だから③の段階が必要なのだが、これはかなり難しいことだと思う。
「恐怖」による統治から「愛」による統治に変えようというのだから。
それができる人間はそうはいないだろう。
③の段階で「とってかわる」「愛を持つ者」は、能力のみでなく非常な根気と努力を要するだろう。③は、とってかわるのが重要なのではなく、とってかわった後「愛」で統治することが重要なのであるから。
統治を知らないケンシロウ
しかし、ケンシロウには、ラオウを倒す気力と能力はあったが、その後を愛で統治する能力・根気・努力が無かった。ケンシロウには博愛精神などないからね。
ユリアは、こちらもなぜかラオウ後の責任をケンシロウとともに果たそうとせず、ふたりでトンズラしてしまう。二人とも口では良いこと言ってはいても、自分のことしか考えない人だからね。それは、これまでのストーリー見てて知ってた。
結局何もせずツケはじせだいへ
数年後、世は再び混迷の時代に向かってしまいリンとバットが苦労することになるが、それはケンシロウの資質と行動から当然の結果である。