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【北斗の拳】第11巻 トキ暴走


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第11巻 第3話 宿命の道! の巻

サウザーの言動もよくわからない。
シュウに聖帝十字陵の頂上に聖碑を運ばせるのだが「聖帝十字陵の最後の頂は南斗聖拳の伝承者によって築かれねば点睛をかく」なんんて言っている。
南斗同士で傷つけあっても意味がない気がするが。
いくら南斗乱れると言っても六星の一つを滅ぼしてはまずいだろう。
とはいえ、南斗白鷺拳は一子相伝では無いようなので他に伝承者がいるから良いのかも。

第11巻 第5話 愛ゆえに! の巻

サウザーを襲う子供

ケンシロウと戦うために聖帝十字陵を登るサウザーの足にシュウを慕う子供が大きな釘のようなものを刺す。
これに対してサウザーは「シュウへの思いがこんなガキすら狂わす!!」と言う。
そしてその子供には手を下さず再びケンシロウに向かっていく。

子供を罰しないサウザー

このサウザーの言動は注目に値する。愛を捨てた人間であれば自分を攻撃する者は子供だろうと容赦なく排除すべきである。
それなのに敢えてしなかったという点がポイントだ。
  「シュウへの思いがこんなガキすら狂わす!!」
という発言とそれに続く、
  「愛ゆえに人は苦しまねばならぬ!!愛ゆえに人は悲しまねばならぬ!!」
を解読するとなぜ子供を殺さなかったかの理由がわかる。
南斗六聖の帝王であるサウザーには、「(身近な人間への)愛ゆえに本来その人間が取らねばならない生き方が乱されることがある」とわかっているのだ。

南斗鳳凰拳伝承者が越えてきたもの

南斗鳳凰拳の伝承には先代を倒されなければならないことの意味をサウザーが理解しているということだろう。
先代が生きている限り先代の影響は直接間接に当代の後継者に出てくる。
そうなるとやはり国を、民を考えた聖帝としての行動はできない。
昔の院政みたいに背後の権力がちらつくと本来の権力者の地位がぶれる。

子供への思い

サウザーは、愛ある故に未来ある子供が、既に死んだシュウへの思いのみで、自分の命を省みない行動をすることを哀れんでいるのだ。哀れんでいるゆえ自分に傷を負わせてもその子供に対して攻撃を仕掛けないのだ。
「子供よ、死んだ者に殉じて自分も無駄に命を落としてはならない。もしこのサウザーに復讐したいのであれば必ず勝てる方法を理論的に得てからかかって来い。感情的になってはならぬ。愛や悲しみで直情的に動いてはならぬ」というのが「シュウへの思いがこんなガキすら狂わす!!」というセリフにはあるはずだ。

ケンシロウは分かっているのか?

「シュウへの思いがこんなガキすら狂わす!!」のセリフ直後、ケンシロウが「はっ」とした顔をし、次のコマでサウザーの「愛ゆえに人は苦しまねばならぬ!! 愛ゆえに人は悲しまねばならぬ!!」のセリフが続く。この順番が重要。サウザーの2番目のセリフまで聞いて「はっ」とするのは普通だろう。サウザーの愛に対する考えの一端が吐露されているから。では、1番目のセリフからケンシロウは何をどこまで読み取ったのか。このシーンだけではわからない。

しかし、ケンシロウだからな~はっとしたのも「トイレ行くの忘れてた~」位のものかもしれない。

第11巻 第7話 天砕く拳!! の巻

サウザ―のセリフ「北斗神拳二千年の歴史も ここで 幕をおろす」といっている。
ジャギは「北斗神拳をめざし そして 敗れた者の一八〇〇年の宿命だ!!」(第5巻 非情の掟の巻)と言っていたし、レイも「天空につらなる七つの星のもと一八〇〇年の長きにわたり営えいと受け継がれてきた一子相伝の秘拳 北斗神拳」と言っている。

この二百年の差は何だろうか。
考えられるのは2ケース。

①単にサウザ―は南斗の人だからアバウトにしか知らないので四捨五入している。
  レイも南斗だが、上記情報は「おれが調べた」と言っているので情報が新しいのだろう。
②北斗神拳の初期200年間は一子相伝の掟はなかったので、その分の200年の差がある。
③新しい学術研究により二千年と言われていたのが一八〇〇年であることが分かったが、サウザ―はその最新情報を知らないが、レイは最近調べたので新しい情報を得ている。

まあ、どっちでもいいけどね。

第11巻 第8話 愛深きゆえに堕つ! の巻

帝王と最後の将の上下関係

サウザーが、
  「南斗の将の体に傷をつけた罪はつぐなってもらうぞ!!」
  「おれは聖帝サウザー!!南斗六星の帝王」
と言っている。
ここまでの話の流れの上ではこれは良い。
しかしその後出てくる「南斗最後の将」とサウザーの関係はどうなるのであろう。
どう考えても、
  「南斗六星の帝王」
が、
  「最後の将」
の下に来るとは思えない。
次のように考えるのが普通であろう。
  南斗には将が複数いる
  複数の南斗の将の内、最上位にサウザーがいる
  「最後の将」とは、南斗の将の最上位であるサウザーが倒れても生き残った将のうち、最後になったのが「南斗最後の将」である。

つまり「ユリア」は「サウザー」の下位の将であるということ。
合理的には、どうしてもそう解釈せねばならぬのであるが・・・・・。

そもそも「南斗の将の体に傷をつけた罪はつぐなってもらうぞ!!」と言っているサウザー自身が、将の一人シュウを傷つけるどころか殺してしまっている事実は、説明が難しい。「南斗六星の帝王」なら良いのか?

サウザーと北斗神拳

ケンシロウとの戦いに敗れたサウザーは「北斗神拳伝承者……おれが かなう相手ではなかった……」と言っている。なぜ「ケンシロウ……おれが かなう相手ではなかった……」ではなかったのだろうか。サウザーはラオウ、トキ、ケンシロウを若い頃から知っているはずである。北斗神拳についてかなりの知識があったはずである。体の構造が左右が逆というアドバンテージを除くとお世辞にも強いとは言えないサウザーが、自分が北斗神拳伝承者より弱いことなど分かっていないはずがないのにと思う。

鳳凰・聖帝・サウザーの使い分け

サウザ―がケンシロウに敗れた後のセリフ、
「フッ…鳳凰の…聖帝の夢はついえたか……」は良く考えると深い。
「フッ…鳳凰の夢はついえたか……」でも「フッ…聖帝の夢はついえたか……」でもない。
なぜ「鳳凰」と「聖帝」が並記される必要があるのか。
「聖帝」はサウザ―個人のこともしくは一般人に対する支配者を指す名称だと考えられる。一方「鳳凰」は南斗六星の帝王としての名称であると考えられる。つまり「聖帝」と「鳳凰」が並記されるのは、サウザ―個人の野望と南斗の野望がともについえたと言っているのではないか。

南斗が乱れるとき…

話中で特に言及されていないので忘れがちであるが、南斗が乱れるときに北斗が現れるという話に決着をみたというわけだ。
サウザ―個人が敗れただけではなく南斗が北斗に敗れた。
これが「フッ…鳳凰の…聖帝の夢はついえたか……」の意味だと考えられる。

しかしこう考えると一つおかしなところがある。
「最後の将」だ。南斗聖拳存亡の危機になにもせず出てこない。
これはだめだろう。
サウザ―助けないと。

制度としての南斗聖拳

南斗聖拳も時代に適応できるように色々な形態を生んだが最後の所で詰めを誤った。南斗のための慈母であったろうによりによって北斗(=ケンシロウ)に対して愛を感じてしまっては内部崩壊するしかない。
サウザ―が言う南斗六星の帝王といっても、六星をまとめられねば意味が無いということだ。六星の1つ仁星のシュウを自ら死に追いやったような帝王では結束を保つことは無理か。

結局、制度としての鳳凰の仕掛けは良かったが、帝王の地位についたサウザ―にその才が無かったということだろう。それを自覚してでたのが「フッ…鳳凰の…聖帝の夢はついえたか……」というセリフだろう。

聖帝の資質

鳳凰と言う割りに体の秘密が無かったらケンシロウとは力の差が歴然としてあるじゃないか。シンは胸に七つの傷をつけるほど強かったぞ。鳳凰の「武芸者」としての力不足が南斗聖拳の不幸であったとも思える。

しかしもう少し考える必要がある。
南斗の帝王が習得すべき鳳凰拳とは果たして実際の拳法なのだろうか。
北斗神拳は暗殺拳というのだから拳法そのものだろう。自分が強ければよいというものだ。

しかし、帝王というのは、一人だけで成り立つわけでは無い。
人心掌握術も帝王としては必要なはずだ。
南斗六星を束ねるのはそれは大変だろう。というか、サウザ―にはそれが全くできていなかった。シュウは自らの手で殺してしまうし、シン、レイ、ユダは勝手に自分の道を行くし、最後の将に至ってはサウザ―と敵対する側についている。結局、お師さんとサウザ―が慕うオウガイが伝承すべきことを全て伝えていたわけでは無かったのではないだろうか。帝王という割りに体の秘密がなければケンシロウに易々と負けていたであろうというのも、オウガイが教えるべきものを教えなかったというところにあるのかもしれない。

思うに、南斗鳳凰拳は、純粋な拳法の部分と人心掌握術である帝王学の二本立てであると思われる。これが長い伝承の中で劣化してしまったのであろう。
伝承者争いをして競わせながら敗れた者の拳は封じるという方法でレベルを保ってきた北斗神拳とはその意味で強さに差がでるのは仕方が無いことなのであろう。

だから北斗神拳が伝承として優れているというわけではなく、ラオウを倒した後はケンシロウにもしものことがあれば、それで北斗神拳は途絶えてしまう。

一方南斗聖拳は、六星だけではなくさらに108に流派が分かれているので、途絶えるということはない。その意味ではどちらが良いとは言えない。

南斗でありながら一子相伝であること

南斗鳳凰拳だけ一子相伝というところが北斗神拳と似ているが、北斗神拳より徹底しているのは先代を倒すことで伝承が完結するというところで、これでは時代時代に伝承者は一人しかいないことになる。これは逆説的に言えば、万一の場合は伝承者が途絶えても仕方が無いという仕掛けである。
これでよいのかと思われるが、これは「蟻の生態」を考えることで解決できそうである。
女王蟻は他の働き蟻の儀性の上で自分の子孫を残し続ける。しかし何らかの理由で女王蟻が死ぬとそれでその蟻のコロニーが崩壊するわけではなく他の一匹の蟻が女王蟻化してコロニーを維持する。これが南斗六星にも適応できるのではないか。南斗鳳凰拳というのは南斗聖拳のその時代その時代の最高位の拳の名称であり、その時代の鳳凰拳が倒れれば別な拳が鳳凰拳の名称を次いで南斗聖拳をまとめる。だからサウザ―の拳の正式名称は南斗鳳凰拳ではなく、「極星十字拳」なのだ。なんで1回目にケンシロウと戦った際の拳の名称が南斗鳳凰拳ではなく極星十字拳だったのだろうという疑問がこれで解決する。

こう考えると、オウガイの伝承不足も説明できる。「極星十字拳」は世界が核の炎に包まれる前に「南斗鳳凰拳」の地位を得た拳であり核の後には適していなかったのだろう。、しかも、オウガイはなぜか帝王としての教育については形式的な「師を倒して乗り越える」という点しか知らなかったのであろう。それで結局は拳も時代に合わず、かつ帝王学もろくに伝承されなかったサウザ―の代で「極星十字拳(=この時代の南斗鳳凰拳)」はついえたのだ。

以上から、「フッ…鳳凰の…聖帝の夢はついえたか……」と「鳳凰」「聖帝」と列挙することには意味があるととらえることができる。
「鳳凰の夢」は、南斗聖拳の外の世界を支配するということであり、
「聖帝の夢」は、「極星十字拳」及びその伝承者であるサウザ―自身が南斗聖拳の最高位に君臨し続けるということ、
という、「世界」対「南斗聖拳」の対立及び「南斗聖拳」対「極星十字拳」の対立という2重構造で捉えるべき発言だったのだ。奥が深い。

第11巻 第8話 愛深きゆえに堕つ! の巻

この巻の最後にラオウがトキに対して奇妙なことを言う。
「トキいずれきさまとも闘うことになろう!ふたりの敵きさまとケンシロウを倒さぬかぎり天は握れぬ!!」なんて言ってる。ラオウが握ろうとしている天とはなんなのだろう。
明らかにここでの「天」は通常の意味の「天下」ではない。トキやケンシロウが怖いのであれば回避するか、謀殺すれば済むことだ。しかもトキやケンシロウはどちらも「天下」を目指しているわけではないから、ラオウの行く手を阻む者であるというわけでもない。
ラオウが握ろうとしている天とはなんなのだろう。

第11巻 第9話 拳王は死なず! の巻

トキが困ったことを言う。
「わたしの死期は近い!ならばわたしもひとりの拳士としてこの生をまっとうしたい」なんて言ってしまう。
だれもいない場所で言った独り言にしても、許されない。
北斗神拳は一子相伝であり、トキは既に伝承者争いに敗れたのであるからこんなことを言うのは許されない。
自分の死期と一子相伝は関係無い。
でも、まあ仕方がないか。だって伝承者争いに敗れても全然拳を封じる気のないラオウと血の繋がった兄弟なのだから。

こう見ると北斗四兄弟でだれも拳を封じていないではないか。全然守られていないな一子相伝。
北斗神拳の長い歴史の中で過去ずっと守られてきたはずなのに。

いままでも一子相伝は何度か守られなかったことがあるのではないだろうか。