実質的な最終巻であり、第1部のラストであり、宗方コーチのためにある巻である(「北斗の拳」第16巻におけるラオウ昇天と同じ位置付けの巻である)。実際の連載も一旦ここで終わっている。
飛行機搭乗シーンへ向かって展開する巻
第8巻で微かにほのめかされ、第9巻でも確認できた、伏線的な事実が、この巻ではもはや伏線ではなく第10巻ラストのあの飛行機のシーン(実質的なラストシーン)に向けて溢れ出てきます。宗方コーチの父親の絡ませ方も秀逸。加賀のお蘭は、テニスでは噂の割に活躍するシーンがあまり描かれていないが、宗方コーチに対する立ち回りは天下一品である。なんとなれば、泣きつくかしかバリエーションのない岡ひろみより余程重要な役回りをこなす。
「栄光への旅だちの巻」とつけるセンス
この巻に「栄光への旅だちの巻」とつけるセンスに凄みを感じる(まあ、実質的な最終巻だから、俺たちの未来はこれからだエンド的なタイトルと考えるとこんなものかもしれない)。これ、栄光へ旅立つということは、今いるところから離れることを意味する。今いるところ、つまり宗方コーチから離れるということ。いやぁ、死別に対して、栄光への旅立ちと例えるのは、かなりなものである。ただし、これは宗方コーチが望むことと考えることができるので、結局、このタイトルは凄いということになる。
身辺整理を始める宗方コーチ
宗方コーチは、自分の死を悟り色々身辺整理を始めるが、一番しなけれなならないことは、岡ひろみと藤堂の仲を認めることだ。
蘭子の哀しい矛盾
108ページで蘭子は、
この人がわたしのおにいさん
よくこの人の妹に生まれてきた
よくこの人の人生にかかわれた
と言っているのだが…、蘭子が宗方コーチの異母妹だから、蘭子が宗方コーチの義妹に生まれてきたから、蘭子が宗方コーチの人生に関わったから、宗方コーチとコーチの母は、父から引き離されたのである。蘭子はもちろん自分の生を肯定して良いのだが、しかし哀しいかな蘭子がこの世に生を受けたことそのこと自体が、宗方コーチには不幸なのである。もちろん蘭子はこれを知っている。その上で宗方コーチが蘭子に「生まれてきてよかったと思っている」と言ったからこそ、上の言葉を蘭子は思ったのである。なんと複雑な感情。
この巻のハイライト
173ページの宗方コーチによる、
愛してるいる 愛している 愛している
3連発である。これを宗方コーチは藤堂に対して言う。普通なら恋のライバルへの宣戦布告と取れるセリフである。しかし、それに答えるかのような、178ページの藤堂の次のセリフは、
まずあなたが見いだして
そしてぼくが気づきました
まず…あなたが愛して
ぼくが愛しました
なのである。なんだこのやり取り。恋文か?2人とも達観しすぎ。精神的に高度な域に達しているため、訳わからん会話になっている。ひろみと相思相愛なのが分かっている藤堂に対し、ひろみのことを愛していると3度も言う精神もおかしければ、その宗方コーチに対し、あなたの方が先にひろみを愛していたと言ってしまう藤堂もおかしい。本人の意向差し置いて、先も後も無いだろう。つまり、一番おかしいのは、このやり取りが、ひろみの感情が関係ない次元の会話だということである。実際には、ひろみは宗方コーチと藤堂の両方を愛している。しかし、宗方コーチと藤堂の会話にはそのようなことは前提にない。岡ひろみという人間ではなく、偶像化した岡ひろみに対する会話なのだ。しかし、これが人を愛するということなのかもしれない(ようわからんが)。さらにこの藤堂の独白には続きがあって、
あなたが彼女の中にはいってとわに生きるなら…
ぼくは…彼女をつつんで命あるかぎり…
と言っている。このポイントは、宗方コーチは現実世界では死にゆく者である。しかし、その宗方コーチのことを藤堂は、永遠に生きると言う。それに対し自分は命あるかぎりひろみを包むと言う。命ある限りというのは死を前提にしており永遠では無さない。この理屈は、間もなく現実世界では死ぬ宗方コーチが永遠である一方で、まだまだ生きていく藤堂自身には有限の時間しかないと言うのである。この藤堂の卑屈さは哀しい。