Golden Time

時はお金で買えませんが、時間はお金で買えちゃいます。

【ちむどんどん】暢子及びドラマ自体に対する違和感の正体


『ちむどんどん』において、個人的には主人公暢子になかなか共感できないでいる。それがなぜなのか考えてみた。

単語のみのセリフが多すぎる

「しんけん」「あきさみよー」「ちむどんどんする」「まさかやー」といった、一言のみの言葉が多い。ドラマ視聴者としては、セリフは物語の内容を理解するために非常に重要な位置を占めるが、物事に対して感情的な感想のみを表すセリフを多用されると、視聴者は物語を把握できなくなる。どちらかと言うと、感情はセリフ以外の演技で表現してもらえれば、余分な情報が減って物語を理解しやすくなる。どちらかというと、騒々しいワンフレーズのセリフは、視聴者の物語への没入を妨げる方向に働く。

とにかく声が大きい

暢子の声が大きすぎる。視聴者にとってはこれも余計な情報となる。感情を表す単語が大きな声量で飛び込んでくるのは、セリフだけではなく、俳優の表情、仕草、画面の構図、音楽その他からドラマを理解しようとする視聴者の脳の処理を停止させる。これは視聴者がドラマを楽しむことを妨げる結果になる。

現実にそう言う人がいるか否かは別として

主人公が大きな声で感情を表す単語を言う性格なのは、その声の大きさ、単語言い切りによる語の強さに視聴者の脳の処理が取られてしまい、俳優の表情、しぐさ、画面のアングル等、物語を理解するための演技、演出の把握を妨げる結果になる。だから落ち着いて観ていられない感覚になる。そのような人物が現実にいるかいないかは関係なく、ドラマという表現において、視聴者が俳優の演技を含めた映像表現全体を理解するのに、感情を表す単語を大声で言い切るセリフは、妨げにしかならない。

話し方は幼児のそれ

主人公の様々な感情を表すはずの場面で、限られた少数の単語のみを繰り回して大声で叫ばせているのは、さながら言葉を覚え始めの幼児を見ているようである。人は成長するにつれ感情を豊かにしていく。高校卒業時の暢子なら、高校卒業程度の感情表現を描くことがふさわしい。しかし、観せられるのは幼児の感情表現。これが暢子に対する違和感の内の大きな位置を占めると考える。沖縄にいた時は、家族の中だから、学校の友人との会話だからと、まだ許容できる理由があった。しかし、東京に来て、初対面の他者との関係や職場においても、相変わらず大声かつ単語だけのことばを繰り出すのは、違和感というか主人公に同調できない。なぜ主人公を幼稚に見せたいのだろう。

恥ずかしさという感情がない

暢子には、良子、歌子にはある恥ずかしがる描写がない。良子は継ぎはぎの服に恥ずかしさを感じていた。しかし暢子は、銀座の一流レストランでビーチサンダルで入っても、そのことに恥ずかしさは感じていなかった。歌子は声を出すことにさえ恥ずかしさを感じ、人前で話すことも歌うことも苦手だった。しかし暢子はどんな場面でも大声を出すことにためらいはない。

暢子には恥ずかしいと言う感情が無いのではないか。恥ずかしいという感情は、成長につれ、特に思春期に高まる。暢子にはそれがない。

幼児のような主人公

結局、暢子は精神的に未熟と言えそう。これは賢秀にも言える。そして、兄妹の残りの2人、良子と歌子は、共に恋をしているが、賢秀と暢子には恋愛話は無い。やはり暢子は思春期以前の精神状態と言える。そんな暢子が主人公であるので、視聴者は同化しづらいのは当然であろう。加えて、兄妹の中でストーリーにインパクトを与えるのは同じく精神的に未熟な賢秀である。このことは、二重に視聴者に負荷を与えることになる。

主人公と2番手が幼児性の強い精神的に未熟なキャラであること、これが暢子に対する違和感、『ちむどんどん』に対する違和感の正体であると考える。

母、優子

彼女が比嘉家4兄妹の性格を作ったと言っても過言ではない。父賢三は各人の性格の根っこの部分作りには影響を及ぼしたが、性格を作り上げる思春期には亡くなっていたので与えられた影響は小さい。これまでの描き方からは、賢三が生きていたらなぁと思わざるを得ない。賢三という名の通り、教育に賢さがあった。しかし優子にはそれがなく、優しさだけと感じる。賢さのない優しさ。これが余り良い方向には行かなかったという印象。